マタイ 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。
人を評価するということはとても難しいことです。誰が何の権威によってそれをするのかという言葉も聖書にはあります。しかし、先を見て育てるという評価もあります。わたしの神学校の内申書には「潜在能力に富む」と書かれてあったそうです。言い換えれば「いまはパッとしないが、あとで花開く時がくる」ということでしょう。先を見て評価するのが教育者の務めなにかなと思います。
イエス様は「毒麦のたとえ」という話をされました。ある人は自分の畑に麦の種をまいた。しかし、眠って間に敵がきて麦の種の中に毒麦の種をまいたという話です。芽がでてみると麦と毒麦が表れた。毒麦を抜いてしまいましょうと僕たちはいいます。しかし主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われるのです。刈り入れまで待つということの意味を考えさせられます。良い麦と毒麦をいっしょに育つままにしておくのは勇気がいることです。しかし、最後にははっきりするということです。毒麦は毒麦しか実らないのです。しかし、私たちは毒麦ではありません。だからこそイエス様は待っておられるのです。
1+1=2。これは算数の基本です。この問題ができなかったのが発明家のエジソンです。彼はこの問題を解くのに、粘土の塊を二つ持ってきました。そしてその二つを合せたらまた一つになったのです。彼にとって1+1=1なのです。そのような考え方をしたエジソンは、成積が悪い生徒だったのでしょうか。むしろ、発想が天才的だったのです。この時、彼を落ちこぼれと判断してその分野を見まもらなかったら、エジソンの発明はなかったかもしれません。
イエス様は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と教えられました。誰が全てのことを判断するのでしょうか。それは神様です。その神様が、最後まで待ちなさいと言われているのに、私たちはすぐに判断をしてしまいます。この人はダメだ。この仕事はダメだ。ダメダメと判断している自分に悔い改めはありません。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と、神様は寛大に言われます。しかし、それが寛大であればあるほど刈り入れの時が厳しいものです。その神様の判断に信頼しましょう。
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