マルコ 1:3 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
北海道を旅したときのことです。よくスピード違反で捕まっている車を見かけました。その車のほとんどはレンタカーでした。どうも旅行者のスピード違反が多いようです。それもそのはず、北海道の道は一直線の道が多く、ひたすらまっすぐなのです。障害物もなく、信号もない。そうなるとついスピードが出るのかもしれません。ただ、まっすぐな道というのはどことなくすっきりとした道でもあります。
マルコによる福音書も、イエス様の宣教活動に先だって洗礼者ヨハネの活動を紹介しています。洗礼者ヨハネの登場は預言者イザヤによって告げられていたのです。活動の中心は「悔い改め」を宣べ伝え、キリストの到来を準備することにありました。そのために「道を整え、道筋をまっすぐに」というイザヤ書の預言がのべられています。イエス様の前に来た、洗礼者ヨハネの役割は神様への道をまっすぐに整えることでした。この道は永遠の道であり、正義の道でもあります。まがったりそれたりしない。それだけに厳しい道でもあります。その厳しさに耐えるのが悔改めです。
種田山頭火の句に「まっすぐな道でさみしい」というのがあります。人生のほとんどを放浪し、句を作り続けた山頭火が「道」について何を思っていたのでしょうか。「まっすぐな道で」という時、自分の人生を振り返ったのだと思います。「さみしい」という言葉に、なぜか胸をうたれます。本当は自分もまっすぐな人生が歩みたかったのでしょう。それができなかった。しかし後悔はあっても、前にある道は「まっすぐ」だというのです。その「まっすぐ」の先にある永遠を見据えていたのかもしれません。
イザヤ書は、洗礼者ヨハネの出現を「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉で言い表しました。自分たちの人生を悔い改めて、神様にまっすぐに向かうように導けというのです。神様にむかってまっすぐに進む道を示せと言われています。洗礼者ヨハネは悔い改めをせまり、その先にイエス・キリストを指し示します。まっすぐの道のむこうにはイエス様がおられるのです。
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