マタイ 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
阪神淡路大震災から18年を迎えました。ルーテル教会も神戸地区で炊き出し、西宮で学童保育の救援活動をしていました。あの時から18年になります。私も西宮教会に派遣され、2ヶ月をそこで過ごしました。多くのボランティアと出会いました。また被災した子供たちと礼拝堂で思いっきり遊んだことが思い出です。あの時、余震が続く中で一番安全なところは教会の礼拝堂でした。教会の横に川が流れていたので、土台になる杭を基準よりさらに10m深く打ってあり岩の上に立っていたからです。東日本大震災ではこれから人生の土台を再度据えなければいけません。心のケアもそのためのものです。
イエス様は「家と土台」のたとえ話をされました。とてもわかりやすいたとえです。自分の家を岩の上に建てた賢い人と、砂の上に建てた愚かな人との比較です。その違いは「土台」にあります。雨が降って洪水が押し寄せても、岩の上に建てた家は倒れなかった。ところが砂の上に建てた家は倒れたという話です。この土台とは神様のみ言葉のことです。私たちはどこに立っているか。それは本当に土台となっているでしょうか。ゆるぎないもの、壊れないもの、なくならないもの。それが土台ですが、そのような土台は神様のみ言葉しかありません。
東日本大震災救援のとき、宮戸西部漁協の支所長である「せっちゃん」を石巻に連れて行く運転のボランティアをしました。車中でいろんな話をしてくださいました。「何もなくなっちゃんだよね~」と言う彼女の寂しそうな声に、答えることもできずに運転していました。全壊地区を通り抜けようとしたときでした。せっちゃんが「ここに家があったんだよ~」「ぜ~んぶ流されちゃったんだよ」「家建てて4年だったちゃ」と教えて下さいました。その現場に車を止め、一緒に土台だけ残った場所を見た時、涙がどんどん出てきて止まらなくなりました。津波被害の恐ろしさ、厳しさ、冷酷さ。それを受け止めねばならないせっちゃんの気持ちを思うと、涙がでてきたのです。「ここは土台もしっかりしているって言われたんだよね」と言う言葉がいまも耳に残っています。
イエス様は「岩を土台としていたからである」と言われました。この岩とは神様のみ言葉のことです。神様の言葉は揺らぐことはありません。その上に立っているときに、生きて行く勇気・希望があたえられます。私たちの人生でどこに土台を据えるかを問われています。しかし、土台はイエス様のみ言葉しかないことも知っているのですが。
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