ヨハネ 8:6 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
神様のクレヨン5の校正が終わりました。これから印刷屋さんに渡し、最後の校正がのこっています。今回の校正も、まず自分で整えます。その後2人の方に校正をお願いしました。そしてさらに自分で見るという作業です。そのようにしていくと、自分の文章の特徴がよくわかります。また性格もわかります。私などは「思います」「かもしれません」と言う言葉を多く使っています。つまり断定できない弱さをもっています。よく解釈すれば配慮しているということでしょう。しかし、なにか書いていくと言う作業は、楽しい反面、自分をさらけ出すという緊張感もあります。
本日の聖書では、イエス様のもとに姦通の現場で捕えられた女性が連行されてきます。律法学者やファリサイ派の人たちは、この女性を「石で撃ち殺すべきか、そうではないか」をイエス様に問います。撃ち殺せと言えば、群衆はイエス様のこれまでの愛の教えに失望するし、撃ち殺すなといえば、律法違反になります。どちらもイエス様にとって不利な答えなのです。そのときイエス様がしておられたことが聖書に書かれてあります。とてもふしぎです。それは「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」というのです。切迫した状況の中で、なんと余裕のあることかなと思います。
文章を寝かせるという言葉があります。私などエッセイや、童話を書くときも同じです。まずテーマを決めて「あれこれ」と考えておきます。時がくると一気に書いてしまいます。しかし、文章というのはそこからです。そのときに「文章を寝かせる」のです。大抵は4日間位を寝かせます。絶対読みません。時間をおいて再び自分の書いたものを読むのです。すると、自分で書いたものを読者の目でみることができるのです。そこから校正がはじまるというわけです。この寝かせる時間というのは、客観化するという作業です。人生も同じように思えます。自分の人生は、自分が主体です。しかし、ちょっと脇から自分を眺めてみると、その後の人生に益となることが多いものです。
イエス様は、緊迫した状況の中にあって「指で地面に何か書き始められた」とあります。問題を寝かせる時間をつくられたように思います。そういきり立つこともなく、もう一度大切なことは何かを考えてみなさいと言われているようです。そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられました。別の角度からみると新しい発見ができそうです。
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