マルコ 8:24 人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります。
今回の被災地訪問を終えて、熊本へ帰ります。あの時の出会いが、今の支援につながっています。救援活動をしていた時は必死でした。しかしなんとか活動だけに集中するのではなく、被災者と出会うということを目標としていました。それが「寄り添う」ということへと発展していきました。やっぱり被災地ではなく、そこにおられる被災者に目をむけねばなりません。人と共に寄り添うとき、本当にキリストがそこにおられることがわかります。
イエス様はベトサイダという村で、一人の目の不自由な人を癒されました。この個所では、イエス様の癒しが順序良く書かれています。手をとり、村の外に連れ出し、目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。そして「何が見えるか」といわれたのです。その人が最初に見たには「人」でした。木のように見えるけれど歩いているのでそれが人であるとわかったというのです。
避難所訪問をしているとき、ある方から言われたことがあります。「私たちはペットじゃないのだけど、動物になったみたいだっぺ」と。避難所で生活し、毎日そこにいて支援物資が3食届くのを食べて何もやることがない。それがあたりまえになってきて、気がついたら餌を与えられる動物のようになっていた、と言われたのです。この言葉を聞いたのは初めてではありません。「人間にもどらなきゃなんねえべえ」とある被災者の女性はいわれました。この人間に戻らなきゃという言葉の中に、復興するという希望が託されているように思います。被害があまりにも想定外で何も考えられなかった状態から、いまやっと次の段階へと一歩踏み出しておられるようです。仮設住宅への移転、住居の再構築、そしてコミュニティの再構築。そんな時、私たちのルーテル救援も過渡期を迎えているのがわかります。私たちは「となりびと」として、「人」と向かい合い寄り添っていく。そのために何をしていくのかを考える時が与えられています。
イエス様は「何が見えるか」と尋ねられました。目の不自由な人は「人が見えます」と答えました。目がみえるようになって初めてみたのは「人」でした。歩いているということでそれが人だとわかったというのです。私たちもまた、被災者の方々が歩き出されたのを知っています。復興への道に歩き出しておられます。その一歩に寄り添った活動がいまできているかを問われています。