マタイ 13:44 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
明日はセンター試験があります。受験する皆さんは不安と緊張の日を過ごしていると思います。しかし、ここまできたら「やる」しかありません。あるコンピュタープログラミングの開発者が次にように言っています。「決心するまでにはためらいがある。後戻りするチャンスがあり、いつでも無効にできる。見逃すと、無数のアイデアや素晴らしい計画も消えてしまう。基本的な真理が一つある。それはきっぱりと心に決めた瞬間、神も味方して下さるということだ」。明日受験する生徒も、すでに進路が決まっている生徒も。そしてまだ在学する生徒のみなさんも、神様から与えられた宝をもっており、「やる」と決めた瞬間に神様は味方して、動きがはじまるのです。
さて、イエス様は「天の国のたとえ」を3つ語られました。イエス様の時代には、人々は宝を壺に入れ土の中に隠しておいたようです。そこがもっとも安全で、よい隠し場所でした。ところが持ち主が天に召されたりすると、その畑を買った人がおもいがけない宝に喜ぶという話です。天の国は見つけた人が大喜びする宝であると教えられました。しかし天の国をみつけた喜びをどう用いるかも課題です。自分の中に隠されている、神様の賜物もおなじです。結局、その人は全財産を売り払って、その畑をかったのですから。
イソップの物語に「けちんぼう」というのがあります。「けちんぼうの人が持ち物をすっかり金と取り替えて、その塊を手に入れました。そして、壁の下に埋めておいて、始終やってきてはながめていました。近所に住んでいる一人の職人が、けちんぼうが行ったり来たりしているのに目をつけて、本当のことを見抜き、けちんぼうが行ってしまってから、金の塊をとっていきました。けちんぼうがやってきてみると、そこがからっぽになっているので、髪をかきむしって泣いていました。こうしてけちんぼうがひどく悲しんでいるのをみて、そのわけを聞いた人がいいました。『悲しみなさるな。石をひろってきて同じところへお埋めなさい。金が埋まっていると思えばいいでしょう。金があったときでも、あなたは使わずにいたのだから』使わなければ、どんないいものを持っていても、なんにもなりません」。
みなさん自分自身の中には、神様が何か一つ賜物を与えてくださっています。それを見つけ出し、用いることができるでしょうか。この時代の中にあって、その賜物をみんなで共有することができるか。結局は「やる」と決めることが、一歩踏み出すことになるのです。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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