ヨハネ 11:25・26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
東日本大震災の救援活動していた時、小学1年生の女の子から質問されました。「ねえ、心臓がとまったらどうなるん」。心臓がとまったら「死ぬ」ということですが、死ぬということを表現できなかったのです。私たちの誰もが人生の中で、人の死を体験します。しかし、何の前触れもなく、いきなり家族、親族、友達、友人を天に送った人々は、まだその死を受け入れられずにいるのです。死は、人間同志の決定的な別れです。共に生きたいという望みも希望も断ち切ってしまうのです。
イエス様もまた、ラザロという友人の死がどれほど痛ましく、悲しいものであるかを知っておられました。しかし、同時に、死がその人との永遠の別れではないと言うことも教えて下さったのです。ラザロの死の前に悲しいでいる人々に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われました。死は終わりではなく、イエス・キリストの復活のいのちに与ることができると言われたのです。
先週は東日本大震災救援活動の継続のため宮城県にいました。今回は名取市にある閖上(ゆりあげ)にいきました。仙台空港の近くですので、その時の状況は皆さんもニュースで少しお分かりになるでしょうか。高い建物は学校くらいしかありません。そこにある住宅のほとんどが津波で破壊されました。閖上小学校、中学校もおおきな被災に会い、中学校では14名の生徒たちが流されて亡くなりました。小学校には名前が書かれたランドセルがまだいっぱい置いてあります。
その閖上中学校には14名の生徒の慰霊碑があり、その横に教室で使用していた机が置いてあります。そこに同級生のメッセージが書いてありました。「あの日、大勢の人たちが津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。街の復興はとても大切な事です。でも、沢山の人たちの命が今もここにある事を忘れないでほしい。死んだら終わりですか、生き残った私たちにできることを考えます」。その横に、亡くなった同級生の名前が記してありました。一生の友達がそこにいるのです。友達の死をとおして、命について、自分たちが残され、生かされた意味を自分たちに問うておられるのでしょう。「死んだら終わりですか」に皆さんなら、どう答えますか。
「死んだら終わりですか」。そうではないとイエス様は教えてくださいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われたのです。残された中学生たちが必死に自分たちにできることを考えています。私たちもイエス様のみ言葉から、死は終わりではないことを考える季節がやってきます。学校では1年のまとめの季節ですね。終わりではなく、明日へ続く何かを見出していただきたいと願います。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>