マルコ 10:21 あなたに欠けているものが一つある
我が家には子供たちがつくったジグゾーパズルがたくさんあります。私は苦手なので手を出すことはありません。あのちまちまとした作業が苦手なのです。それでも作っていく過程をみるのは大好きです。きっとやっている人たちは目標に向かって完成させていくことが楽しいのでしょう。あるとき、最後の1ピースがないと言う事件がありました。結局ないものを販売元に送ってもらいましたが、その1ピースがなかったことの残念さ、無念さをひしひしと感じました。まるで人生のようだとも思いました。天国に召されるには、最後の1ピースはなくしてはいけない。その1ピースは信仰だといえます。
イエス様のもとに一人の人が駆け寄ってきました。彼は「永遠の生命を受け継ぐには、何をすればよいか」と尋ねました。イエス様は十戒(モーセに与えられた戒め)の中から答えられました。すると「それは子どもの時から守ってきました」と答えるのです。そこで「あなたに欠けているものが一つある」と言われたのです。その一つとは全財産を売って貧しい人に施し「私に従いなさい」と言われたのです。一番大切なものは欠けている一つであると。
「牧師補研修会」というものを任されてやっていました。この研修がはじまった頃は2日目の研修のメーンは接遇訓練でした。挨拶の仕方、電話の対応、おじぎの仕方、手紙の書き方などなど。どうして今頃と言われても、「挨拶ができない牧師達がいる」「常識がわからない牧師がいる」という信徒の皆さまからのご意見が多くよせられていたからです。教会に電話をかけたときや、電話を受けても「?」と思うことは最近もあります。とにかく話している人が誰かわからないのです。「はい、教会です」ではいけないのです。「はい、幼稚園です」というのはもってのほかです。教会に電話しているのですから。研修では「お電話ありがとうございます。ルーテル大江教会の牧師の立野です」という応答を学ばせていました。私たちは自分が正しく、完全だと思うときがあります。これでいいと自分に言い聞かせるときもあります。しかし、それは本当に正しいことでしょうか。神様のみ言葉を伝えるまえに、挨拶もできないようではと思います。
イエス様は「あなたに欠けているものがひとつある」といわれました。完全だと思うほど、落とし穴があるものです。ひとりひとりイエス様の十字架のまえで自分を点検しなければなりません。教会の季節が受難節です。自分をしっかり省みる季節としましょう。
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