箴言 23:13 若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。
箴言23章は若者に対する教育のことが書かれてあります。私の子ども時代は、先生の体罰というのをよく見かけました。納得できるものもありましたが、そうでないものもあったなと思います。納得できるものであれば心の傷は残りません。しかし、納得できない体罰が子どもの心をいかに傷つけるかを教えられます。最近ではこの体罰の問題が社会で取り上げられています。暴力という問題だけなのか。社会全体に歪を感じるいま、根本にあるのは一体何かを考えさせられています。
プロ野球が始まりました。いつも楽天イーグルスの監督の星野仙一氏のことを、興味深くみています。なんだか昔の体育の先生を思い出すのです。ある日のニュースでは、「緩慢なプレーには鉄拳制裁も辞さない」と書かれていました。星野監督といえば、鉄拳というイメージがあり怖いという印象です。しかし、その内容をきいてみると、プロの勝負師としての考え方があるのでしょう。「緩慢なプレーは許さない」という一言に、何のために野球をしているのかを問うておられるのかなと思います。楽天イーグルスがどうなるか、今年も楽しみでもあります。
箴言は「若者を諭すのを控えてはならない」といいます。いまの社会では「いってもしょうがない」という感じで諭しを控えることも多いようです。逆ギレというものもありますから、若者を諭すのには勇気がいることかもしれません。しかし何のために「諭す」のか。それは、若者自身の人生のためであり、神様が彼を導こうとされているからです。
「鞭打っても、死ぬことはない」という表現は、箴言の時代には若者を諭すときの鞭打ちは普通のことだったのかもしれません。しかし、鞭打つ前に、そこには親の愛が先行しているように思います。泣きながら鞭を打つということもあったのでしょう。体罰を肯定はしませんが、その前にある何かをつねに考えていかねばと思います。
451.朝礼拝130403「知恵が財産」
箴言 24:3 家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ。
この年になると、神様から頂きたいものが何かを考えるようになりました。お金とか物とかではなく、人生の後半にいただきたいものは「知恵」であると言えます。全ての物は神様の祝福によって与えられているものです。その中で、本当に必要となるものは「知恵」なのだと教えられています。
箴言は「知恵」を人間に高価な財産をもたらすものと考えています。財産の形成にはこの知恵が必要で、知恵によって満たされることを高価な財産と言います。特に4節は「知識(知恵)は部屋を満たし、貴く喜ばしい財産となる」と言います。財産といえば、金、家、土地というように物にとらわれがちです。もちろんそれも財産です。神様の祝福によって与えられたものだからです。しかし、それに勝る財産がある。それが「知恵」だというのです。
たった一人で家を建てている大工さんに聞いた話です。「最近は家のまわりに玉砂利を敷く人が多くなった。これは昔からの知恵なのだが、その理由が情けないと思う」と。実はいまの人たちが玉砂利を敷くというのは、不法侵入者防止のためだというのです。塀とか壁とかが庶民の家になかった時代、人がやってきたということが分かるために玉砂利を敷いた。最近では不法侵入防止なのだと嘆いておられました。人が来たことを知るのか、人が入らないように警告するのか。人間の心の中の根本を見つめさせられます。昔の人たちの知恵というのはすごいなと思いつつ、それを私たちはどのように受け継ぐべきなのかを考えさせられました。何が知恵で、何が英知なのかです。
箴言は「家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ」と教えています。確かに知恵によって、様々な工夫がなされ、人が生きることにその知恵が直接かかわっています。しかし、知恵によって築かれても、それがそこに住む人間の英知へと発展しないならば、その知恵は力をなくします。神様から与えられる知恵は、信仰によって英知に変えられ、人間にとって大切な基盤となっていくのです。それが本当の財産です。
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