創世記 26:14 多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。
「あなた、妬まれてるよ」と言われたことがあります。自分ではまったく妬まれる理由をみつけることができません。妬まれるという意味もわからない。そのような時、自分ではわからないくらい神様の祝福をいただいているのだと思いました。自分としては神様のみ言葉に従い、必死に生きてきた。それを神様が導いてくださり、今の自分があるだけです。しかしその時は十分に注意する時かもしれません。そこで思い上がらないことです。
イサクは、飢饉がカナンを襲ったとき難をのがれるためにゲラルという土地にいきます。そこは神様がアブラハムに約束の地として与えたカナンの最南端にあたります。その隣はエジプトです。人々は飢饉のとき、エジプトに食料を求めていました。しかし、神様はエジプトに行くなと命令されました。神様はアブラハムとの約束のとおり、カナンの地で祝福をされる。その約束を信じ、神様に従うことを命令されたのです。イサクはゲラルに留まりました。するとゲラルの地で、多くの祝福をうけました。それに対してペリシテ人はねたむようになったのです。
「けんかをしない30の方法」というブログがあります。その一つに「ねたみ」があり、心理学による実験の話が書いてありました。自分の性格などを知る実験でした。ブログによると「ある女性に、とても美人で頭がいい人の話をしました。するとその女性は、大変にねたみをしたという結果が出ました。でもその反面、同じその女性に優秀な音楽家の話をしてもねたみしないという結果になってしまいました。またある音楽学生に、優秀な音楽家の話をするとねたみしました。その一方、美人で頭のいい女性の話をしても、ねたみするということはありませんでした」。ねたみがあるということは、それだけ興味があり、欲があるということをあらわします。つまり自分は何にねたむかで、自分の興味がわかるということです。
創世記ではイサクが神様の祝福をうけ「豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった」とあります。その後、イサクは井戸争いに巻き込まれていきます。ペリシテ人のねたみの本質は、多くの羊や牛、多くの召使でした。しかし本当にみておかねばならなかったのは、イサクの背後におられる神様の祝福でした。ねたむ相手の背後には何があるか、自分は何に興味を持っているかを考えることも大切だと思います。
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