1ヨハネ 4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
いま机に上に3種類の聖書がおいてあります。新共同訳聖書、ケセン語(東北地方)」そして、大阪弁訳(関西)の聖書です。読み比べてみるとかなり楽しいものです。たとえば、「心の貧しい人は幸いである。神の国はそのような者たちのものである」は、ケセン語では「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神さもの懐にシッカリと抱かれるのはその人たちだ」となります。大阪弁では「心の貧乏なもんは幸せなんやで、神はんの国はそん人らのもんやさかい」となります。なるほど方言にした方が心に迫ってくる感じがします。しかし、内容は同じことを言っているのです。翻訳の面白さかもしれません。中心に神様の言葉があってこそ、外に向かって発信されたとき心を打つのでしょう。
ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。
海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。
ヨハネは「真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることによると言うのです。神様のみ言葉を始まりの点にすることが、惑わされることがないのです。生活の中における中心を神様のみ言葉にするとき、私たちの生活はより豊かに祝福されていくのです。
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