「礼拝堂でお祈りしてもいいですか」と尋ねてこられた方がおられました。もちろん誰が祈られてもいいようにいつも礼拝堂の扉は開け放たれています。この日も、ぜひどうぞとご案内しました。また、何か話があれば声をかけてくださいねと言葉を残して集会室に行きました。一人で祈りたい何かがあるんだなと直感しました。こんなときはそっとして、神様と二人だけの時間をもっていただいた方がいいのです。
かなりの時間が経ったでしょうか、礼拝堂で祈りを終えた方がお帰りになるのがわかりました。すぐに玄関の所にいき、少し声をかけさせていただきました。するとその方は一粒の涙を流しておられました。きっと何か辛いことがあったのでしょう。ゆっくり神様とお話して心が落ち着かれたのならいいなと思いました。雰囲気からなにか話をしたそうなのですが、言葉が出ない様子なのです。どうするべきか、話すきっかけはないだろうか。いまは何も言えなくても、いつか神様がまたこの教会につなげてくださるのでは。そんな思いが次々と湧き上がりました。きっかけは何かないかなと。
そのときでした。「神様のクレヨン5があるよ」とフッと声がきこえたようでした。心の慰めにはならないかもしれませんが、神様とのつながりが僅かでもできるなら。1冊の本でも、そこに福音が語られていればいつかはその方の心に届くだろう。いやイエス様が届けてくださいと祈りました。そして「よければ、クレヨンをお持ちください」と差し上げることができました。その方はちょっと微笑んで「またきます」といってお帰りになりました。
たったこれだけのことですが、その日はとても豊かな気持ちになれました。宣教って大げさなことではなく、ちょっとしたきっかけを届けることではないかなと教えられたのです。教会に支援をうけたクレヨン5は、必要なところに届けられています。