マタイ 20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
ちょっとした意識のズレがとんでもないことになると、夫婦カウンセラーが言っていました。性格の不一致と言う言葉を聞きますが、性格が一致するなんてないと初めから思っていればよいのだというのです。確かにそうかもしれません。同じ性格だともい違いをし、考えも同じと思っていると,フトしたことで違いがわかり、それが大きな溝になっていくのです。はじめから私たちは別々の個性で生きていると確認し、ある程度は許容範囲と開き直ることが大切だと教えていただきました。たしかに人間は同じではなく、違いがあるから楽しいのです。しかし、それが違いであればいいのですが、ズレとなると問題です。
イエス様のもとに、ヤコブとヨハネの母がやってきて願い事をしました。「息子たちの将来の地位を約束してほしい」という内容でした。それを聞いた他の弟子たちは怒っています。弟子たちの中に強烈な順位争いがあったのかもしれません。「偉くなりたい」が弟子たちの目標だったのです。イエス様は弟子たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と諭しておられます。
飛行機の話をある本でよみました。飛行するにあたって大切なことがいくつかある。その一つが方向を見定めるということです。たとえば、ニューヨークからイスラエル(テルアビブ)に飛行するとき、その方向が北に1度ずれたとしたら、どこに到着するか。じつはモスクワに着きます。初めは小さな方向のズレが、とんでもない到着地になるのです。目標をきちんと定め、つねにその方向に向かっているかを点検することは大切なことです。しかしそれ以上に、目標は何か?望みは何か?がはっきりしていることはもっと重要なことだと思います。
イエス様は「何が望みか」と聞かれました。しかし、彼女が望んだことは的外れでした。それに対してイエス様は、十字架の出来事をもって彼女の願いの的外れをただされました。仕えることが弟子たちの目標であり、イエス様はそのことを教えるために十字架の死を示されたのです。目標と方向を見失わないためでした。
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