マルコ 12:42 一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
被災地救援をしていたとき、行政の混乱と言うことをききました。何が混乱しているのかと行政の会議の様子を出席者の方に聞いたことがあります。いちばんは「どこがそれを担当するか」でもめているというのです。それだけではなく、これは自分たちの部署がやるといって議論しているといいます。部署の威厳に関わると言う議論です。救援活動は待ったなしのことでしたが、そこでも何か見えない縄張りと言うのがあるのかなと疑問に思いました。みな被災地で苦しんでいる被災者が一番大切だとわかっているのですが。
イエス様はエルサレムの神殿で、金持ちがたくさん献金する様子をみておられました。その中に紛れて、一人の貧しいやもめが献金する様子がイエス様の目にとまりました。その時イエス様は、「彼女がだれよりもたくさん入れた」と言われました。ほんの小さな事をも見逃されなかったのです。イエス様は「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」といわれました。
ある時、PTA役員が学校で起こった問題について役所に電話したそうです。すると、「その問題なら部署は○○です」と電話を回されました。4,5か所に転送され、結局教育委員会にかけ直してくださいと言われたというのです。電話のたらい回しに、PTA役員の怒りは爆発しました。役所でも仕事の分担があり、それを超えることはできないのでしょう。しかし、問題の解決のために多くの部署へまわす前に、電話を受けた人がまずしっかり聞くということが大切だと思いました。たらい回しにされたということが一番の怒りのもとだったと思います。どんな小さな物事をも見のがさずに、しっかり受け止めることができれば問題解決もできるように思います。
イエス様は、貧しいやもめの小さなしぐさに目をとめられました。彼女をじっと見つめておられたのです。そして、彼女の中にある「すべてを神様に委ねる」信仰を見出されました。イエス様は私たちの小さな思いまでも知っていてくださいます。そして配慮してくださいます。私たちはイエス様の配慮の中で生きています。その配慮は小さなところまで行き届いています。
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