ルカ 3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
会議の中で「自分は正しくて相手はみんな馬鹿」という言葉を聞きました。その人の生き方をみていくと傲慢にみえます。しかし、そういう風に言わざるを得ない何かが内にあるのでしょう。小さい頃から自分が認めもらえない危機感があるのかもしれません。本当は自分のことをわかってほしいと訴えているかもしれないのです。もしそうだとしたら、「相手はみんな馬鹿」ではなく、「相手も正しいことがある」という気持ちを少し持つだけで変わってくるのですが。
洗礼者ヨハネが登場し、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。その内容の厳しさに群衆はとまどい、「どうすればいいのか」とヨハネに聞きます。それに対してヨハネは3つのことを示します。「1、持っている者は持たない者にわけなさい。2、規定以上のものは取り立てるな。3、金をゆすりとったり、だましとったりするな。」でした。あたりまえのことをあたりまえにということでしょうか。しかしそれは小さな行いであっても、神様と隣人への大きな愛のわざとなると教えたのです。
新幹線の中で2人の会社員が大声で会話していました。内容は上司に対する不満といったものでした。静かな車内でしたが、2時間位その会社員の話が回りに聞こえていました。誰も聞いていないようでした。ところが、ある所でみな「クスッ」と笑いましたので話は聞かれていたのです。その場面は、仕事上のトラブルで中止されたプロジェクトがあり、上司から「お前はどう責任をとるつもりか」と言われたそうです。その上司はいつも「どう責任をとるか」しか言わないとのこと。同じことばっかりで、ついに切れて「じゃ、どう責任をとればいいか教えてください」と言った。すると何も答えがなかったと。このとき聞いている人はみな「クスッ」と笑ったのです。「どうすればよいか」にきちんと返答できなければ、「どう責任をとるか」と責めることはできないと私も思いました。
洗礼者ヨハネは「どうすればよいですか」という問いに、きちんと答えています。それを答えるにあたって、神様と隣人の立場に立って答えているのです。自分がどうするかではなく、相手にとってどうしてほしいかを考えることを示唆したのです。「わたしはどうすればいいですか」という質問を受けた時、神様の御言葉に立ってこたえることができるでしょうか。
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