マタイ 7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
「あたりまえのことを、あたりまえのようにする」。なんだかもっともなことですが、これが難しいと書いてある本をよみました。やることは「あたりまえ」のことなのですから、自然体でそれをやればよいのです。ところがそれができないことが多いものです。つまり自然体ということが苦手のようです。自然体に生きていくことができなのは結局、自分に自信がないからかもしれません。しかし、自信がなくても人は自然体で生きることが一番楽なのですが。
イエス様の「山上の説教」の結びとなる4つの勧告の一つです。彼らの中に偽預言者がおり、羊を装いながら狼のように教会を荒らしているというのです。しかし、本当の預言者か偽預言者かを見分けるには「彼らの行いの結果」をみればよいというのです。結果が悪いものであれば、その原因があるのです。イエス様は「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われました。原因があるから結果があるのです。ただそれは珍しいことではなく、あたりまえのことです。イエス様が教えられることは、何か特別なこともありますが、ほとんどはあたりまえのことのように思います。
仏教の本に、ものごとが「うまくいく・いかない」「成功・失敗」というのは客観的なことではないと書いてありました。これはあくまでも自分の主観からくるもの。必ずそうなる「原因」が自分にあると。また、あるエッセイの中で、次の言葉をみつけました。「リンゴの種を蒔いて桃を食べたいと思っても、かなわない希望です」と。つまり、原因に適した結果があらわれるのであって、期待した結果にはならないのです。ということは、自分の思うとおりにいかない時は、自分の中にある原因をみつけだせということでしょう。他にもとめるのではなく、自分を見つめなおすことだと思います。
イエス様は「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われました。神様は私たちを良い木として造られました。ですから良い実を結ぶのは当然のことです。私たちの働きの中心に神様の業があるから、必ず「うまくいく」のです。もしそうでないならば「原因」を自分の中に見出し、悔い改めることを求めておられるのです。
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