ルカ 18: 17 子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ある人が語学を勉強するのに、良い方法をみつけたと教えてくれました。その人はドイツ語を勉強する目標を建てました。その頃自分に子どもが誕生しました。彼は、子どもが言葉を覚えていくのにあわせて自分もドイツ語を覚えることにしたのです。ところが、1年も経たないうちに諦めたそうです。なぜなら子どもが言葉を覚えていくペースは、驚くほど速かったというのです。子供の成長の速さと、学ぶスピードはどこからくるのか。子どもはなにもできないと考えていると大きな間違いをしてしまうものです。
イエス様のもとには、祝福をうけるために多くの乳飲み子が連れられてきます。福音書では、弟子たちはそれをみて叱ったと書かれてあります。乳飲み子たちがうるさかったというわけではありません。ユダヤ社会では子どもは成人するまで女性に属しており、律法順守の義務を持っていませんでした。ということは救いにも与り得ない存在だったのです。その子どもたちをイエス様は受け入れられたのです。イエス様は、たとえ子どもでも、いや子どもだからこそ神様の祝福を受けるべきと招かれたのです。ただ子どもとしてだけではなく、一人の救われるべき人間として招かれたと思います。
子どもって本当に純真で、優しくて、無垢な存在なのかと考えるときがあります。教会学校などをやっていると、案外そうでもないなと思います。子どもは子どもなりにいろいろと計算しているし、人を小バカにするし、話はちっとも聞いてくれない。しかし、聞いてないようでも聞いている。バカにしているようでも実際は愛情の裏返しだったりします。子どもは複雑な心をもっていると実感させられます。それだけにストレートでぶつかってくるのも子どもです。このストレートさを大人は忘れてしまってはいないでしょうか。信仰もストレートであるべきではと考えさせられます。
今日の福音書で問題とされている「子ども」は、乳飲み子です。乳飲み子は信頼の固まりです。親に対して絶対的な信頼を持っています。しかも、乳飲み子が言葉を受け入れていくスピ-ドは驚くものがあります。信頼している人の言葉を、たっぷり吸収していくのです。神の国はこのような者たちのものです。律法が守れるかどうかの問題でなく、み言葉を聞き受け入れることができるかどうか。それが問題です。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>