マルコ 4:8 ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
昨日の九州学院聖書科の授業は、パラドックス(逆説)について話しました。「先のものがあとになり、あとのものがさきになる」。このみ言葉をつかって、発想の転換や逆から考えることをはなしました。いちばん言いたかったことは、自分の座標軸はどこにおくのかということです。いい大学、いい会社、いい家庭というような座標軸をいちど横に置いて、自分が一番したいこと、やりたいことを考えてみようと問いかけました。一度自分の人生を逆からみたら面白い発見ができるかもしれないと。どんな風に聞いてもらえたか。
イエス様が語られた「種まきのたとえ」です。種がまかれ、いろいろな場所に落ちます。道端、石地、茨の中。しかしどれも芽をだしますが成長も、どれも芽生え、育って、実を結ぶこともできませんでした。しかし、「よい土地」に蒔かれた種は、百倍にもなったというたとえです。問題は種ではなく、どこに蒔かれるかです。そして私たちは「よい土地」が何であるかを考えねばなりません。
P.F.ドラッガーの本で読んだ話です。私たちの衣料にとって欠かせないのがファスナーです。これはもともと海上輸送用の穀物袋のために開発されたものでした。衣料用としては考えてなかったのです。ボタンの代りになるとは誰も思わなかったからです。また開発者も衣料で用いられ普及するとは思わなかったのです。しかし、いまの衣料にとってファスナーはなくてはならないものです。その普及はものすごいものがあります。
イエス様は「よい土地に落ち」ということを言われます。与えられた賜物はそれだけに使うのでなく、もっと別のよい土地があるかもしれません。み言葉は一方的なものではなく、どんどん広がっていきます。その広がりを止めているのは自分かもしれないと思いました。いろいろな角度からみ言葉を読んでみると意外な救いがえられるような気がします。
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