エフェソ 5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
教会の礼拝にはローソクが用いられます。大江教会では毎日の礼拝で灯されますので、ローソクがすぐになくなってしまいます。ローソクを見ていると、紙芝居「ちびたローソク」を思い出します。ローソクは自分の身を削ってひとに灯りを届けていると言う話です。ローソクも大変だなとおもいつつ、でもそれがローソクの使命なのだからローソクは喜んで身を削っているのだと思います。それが神様にも喜ばれることなのだろうなんてローソクの灯りを見ながら考えてしまいました。
パウロは「光の子として生きる」ことを勧めます。その中で何が主に喜ばれるかを吟味しなさいと命じます。光の子として生きるというのは、その生き方が主に喜ばれるということです。信仰者として生きていくとき、自分だけの光の子であってはいけないと言われました。光とは自分にとって必要な存在でなく、光を必要とするひとにとっての存在です。光の子であるいじょう、周りの人にとっての光でありたいと願います。
経営の神様?と言われた人が、商売成功のコツを聞かれて答えた言葉があります。「私は、商売のコツのひとつは、サービスに徹することにあると思っているが、このサービスとは、言葉をかえていえば、人に喜びをあたえるということである」。ということは何が人によろこびを与えるかを常に考えることなのでしょう。
キリスト者はその生き方において「何が主に喜ばれるか」を考える必要があります。パウロは「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」と言います。主に喜ばれることに従って生きるとき、人に喜びを与えることができます。確かなことは、どちらも自分の喜びを考え求めるのではなく、相手のことを考えるということです。今日一日は「主に喜ばれる」ことは何かを考え、人によろこびを与える者になりましょう。