マタイ 4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
「キリスト教を信じると病気が治りますか」と質問されたことがあります。病気が治るか治らないかは、神様のみ心だと思っています。だからキリスト教を信じると病気が治るとはいわず、まず病気を受け入れることができますと答えます。まず受け入れること、それから次があると考えています。
イエス様の公活動の最初の仕事は、弟子を召すことでした。その後、おびただしい病人をいやすことへ活動は広まっていきました。イエス様の働きの3つの柱は「教え」「福音を宣べ伝え」「いやす」に集約されています。この3つを現代の教会もその勤めとしているのです。イエス様は人々の中心におられ、痛み苦しみ寄り添われています。その寄り添いのなかで、この3つを大切にされたのです。イエス様の公生涯を覚える時、いつも人々の中におられたと言うことがわかります。
宣教会議のたびに、何か足りないものを感じます。そう思いつつこの箇所を読んだとき、これだ!と思いました。それは「いやし」について語られないということです。宣教とは「イエス様のみ言葉を宣べ伝えることである」。もっともです。しかし、「いやし」はどうなのでしょうか。「病気のいやし」だけでなく、「魂のいやし」が話されているか。教会は人々の「いやし」をみ言葉とおして行っているかということです。
マタイ福音書には「エスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。群衆は、ありとあらゆる病人を連れてイエス様のもとへきます。また、イエス様のもとに連れてくる信仰を見ます。なぜ連れてくるか、そこに「いやし」があるからです。いま私たちの教会に「ここにいやしがあるか」を問うてみたいものです。もしあれば人が集まってくることでしょう。現代の社会にとって何が一番の「いやし」なのでしょうか。静かに神様との時間をもつことですね。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>