マタイ 10:42 わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
「親切の押売り」という言葉をきいたことがあります。親切を行き過ぎると押売りになるし、相手のことを考えなければ、せっかくの新設も無駄になってしまうのです。親切の押売りの中に「やってあげているんだぞ」という傲慢な気持ちを感じることがあります。それがなければもっと感謝してうけとっていただけるのにと思います。
イエス様は弟子たちを宣教へ送り出すにあたり、多くの言葉を語られました。その最後に「受け入れる人の報い」を教えられました。弟子たちは宣教活動の中で、喜んで迎えられるばかりではない。むしろ迫害をうけることが多いかもしれない。しかし、必ず受け入れる人がいる。その人々は神様の報いを受けるといわれました。それが冷たい水1杯であったとしても。
被災地で活動していたとき、多くの人々に出会いました。その中でも「やっている」「やってあげている」という感じを受けることもありました。被災地に雨が降り活動が中止になると「せっかくここまできてやっているのに」と声を荒げてクレームを言ってくるボランティアもいました。なぜ雨の日は中止なのかをちょっと考えてみるとわかるのですが。お金と時間をかけて東北へきているということもわかりますが。ただ、そのとき「受け入れて下さる方がいなければ」を考えてほしいなと思います。私たちは被災地の方々に受け入れてもらえなければ活動はできなかったのです。
イエス様は「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。そこまでの関係を持つことができれば、互いに祝福をうけるということです。「してあげる」「してもらう」だけでなく、互いに復興へむかうことが「となりびと」の役割だと思います。