ガラテヤ 2;20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
被災者の方々の話を聞きながら、毎日のように必要な物資は変わってくるのがわかりました。すべてを失くされたわけですから、当然のことだと思います。しかし、私たちの教会救援ではできることとできないことがありました。本当に必要なものは私達では用意できないのかを悩んだこともあったのです。そのもっと大きなものが「仕事と家」でした。これに応えるために最後までやり続けているのが「気仙沼のコミュニティセンターの建設」ではないかなと思っています。
パウロは、自分の内に生きておられるキリストを強調しています。キリスト者として生きる者は、徹底的にキリストを受け入れる者です。そして、キリストを徹底的に受け入れるとは、キリストが私を徹底的に支配されるということです。私たちは、信仰によってそれに従うのだというのです。ですから、パウロの行いはすべてキリストからでているものであり、キリストの業であるのです。
いまルーテル支援は、被災者のお宅を一軒一軒訪問してきました。そのとき「何かお助けできるものはありませんか」と言葉をおかけします。大抵の方は「私たちより困っている人のところへ行ってください」と言われます。しかし、そこでは助けるものが何もないかというと、そうではありません。そんなときは「助けるものはなくてもお話をきかせてください」とお友達になっていただきました。いまでも被災者に必要なものは「家と仕事」です。その支援は大きすぎてルーテルさんではどうすることもできません。しかし被災者の方が「ルーテルさんがくると元気になるよ」「ルーテルさん何回もやってきてね」と言われる事が、とても感謝です。被災者のおじいさんがこう言ってくれました。「あんたらはキリストさんをしょってるのだね」と。その一言がどんなにうれしかったことか。
パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」と教えています。宣教に派遣される弟子たちも、みなキリストが内に生きています。私たちが支援活動をさせていただくとき、そこにはキリストがおられます。背中のキリストが、私たちの支援を支え、育み、生かしてくださっているのです。