ローマ 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
テレビを観るより、ラジオを聞いている時間が多くなりました。テレビは一度見始めるとダラダラと時間を無駄につかってしまうような気がするのです。しかし、本当の理由はコメンテーターという人たちのコメントがいやなのです。ニュースはニュースとして聞きたいのですが、そこに個人的な感想がはいるのが煩わしくなってきました。なんだかコメントに左右されてしまいそうになります。ニュースはラジオで聞く方がよくわかります。
パウロは万人の救いに関して「信仰による義」を主張しています。そのなかで、神様を呼び求めるためには信じることが、信じるためには聞くことが、聞くためには宣べ伝えることが、宣べ伝えるためには遣われることが大切だと教えています。弟子たちの派遣と宣教活動は、福音を伝えることであるとのべています。何を伝えるかははっきりしています。だからこそ余計なもので飾らずに直接伝えることが出来るのです。
「何がニュースになるか」というエッセイを読みました。犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになると言われます。これは昔から言われていることです。ニュースとはめったに起こらないことが起こった時にニュースになるというわけです。ところが天気予報、株式、バーゲンセールもニュースになります。これは「多くの人が気になることを伝える」のもニュースだからです。そしてもう一つ「身近な出来事であること」もニュースです。
パウロは「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」というイザヤ書の言葉を引用しています。「良い知らせ」とは福音のことです。福音を「グッド・ニュース」といいます。イエス様が語られたみ言葉の中に、ニュースになる要素がすべて入っています。めったに起こらず、人が気になる、身近な出来事。聖書を読むとは、毎日わくわくするような福音にふれることです。
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