ローマ 3:22 イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
今日は長崎に原爆が投下された日です。広島が6日、長崎が9日。広島が原爆の被害を受けた最初の地、長崎が最後の地であってほしかったですが。やっぱりそうならないことに人間の罪深さをみます。核の平和利用の名のもとに原子力発電所が造られました。しかしそれがいま日本全体、世界全体を恐怖に陥れている。人間はやっぱり自分たちがやっていることの罪深さに気がつかないのでしょうか。たえず自分に問いかけています。
パウロの「ローマの信徒への手紙」の中でも有名な箇所です。「神の義」は律法の中にあるものではなく、イエス・キリストを信じる信仰の中にあります。しかも、信仰によってすべての人に与えられるのです。そこに何の差別もないことが強調されています。神様からいただく救いの恵みはすべての人に与えられるのだというのです。
広島で行われた「ルーテルこどもキャンプ」で、一人の子どもが「原爆もいいこともあった」と感想を書いたそうです。これは戦争を終わらせるために必要だったということではありません。すでに天に召された韓国人被爆者の宋さんの証言で「私の人生で原爆だけは差別しなかった。広島にいたすべての人の上に平等に落ちた」ということを聞いての感想でした。宋さんはキリスト者でした。これを説明したスタッフの伝え方もあるでしょう。子どもにとって「差別がない」ということは「いいこと」として感じ取れたのだと思います。しかし、宋さんは、その悲しみ苦しみをこえて「仲良く」する「手をつなぐ」ことを訴えておられたのです。閉会礼拝で一緒に考えてみました。「こんなに苦しく、悲しく、恐ろしいことでしか、人は平等に扱ってもらえない現実の厳しさ」という点を考えたのです。「差別がない」という時、なにをもって差別がないと言えるか。神様からいただく恵みを共有するときにではないかと話ました。子どもたちが生きる現実の中でもっと深めていかねばならない問いかけだと思います。
パウロは「そこに何の差別もありません」と言います。神様の出来事の中に「差別」はない。しかし現実はどうかと考えさせられます。しかし、神様の義はイエス・キリストを信じる信仰によってすべての人に与えられるのです。今回いただいた問いを、子どもたちとこれからも共に学んでいきたいと思います。
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