マルコ 11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。
「人を殺したいと思ったことがありますか」というCMがありました。そのように真剣に聞かれると、思ったことはないと言えます。軽はずみでそのように考えることはあっても、真剣に人を殺そうとは思わない。ところが、最近は殺人のニュースが多いのが気になっています。そして、殺したいではなく殺してしまったというのです。人を殺すのは相当の憎しみが必要だと思っていましたが、殺してしまったにはそのような感情は必要ないのでしょうか。
イエス様がエルサレムの神殿で最初にされたのは、商人たちを境内から追い出すことでした。神殿は祈りの家であるのに、商売の家、強盗の巣になっていたからです。「宮清め」という出来事として知られています。この行為に対して、祭司長たちや律法学者たちは激怒し、イエス様を殺すこと考えています。何が彼らの心に「殺す」という殺意を生まれさせたのでしょうか。
台風の影響で雨が降った日のことでした。夕方、窓から通りを眺めていました。すると勢いよく夕刊配達のお兄さんがバイクを飛ばしてやってきました。ところが雨で入口のタイルが濡れていたため、滑って転んでしまったのです。幸い怪我もなさそうでした。ところが、そのお兄さんは立ち上がるなり、ヘルメットを勢いよくけっ飛ばし、バイクの横に座り込んだのです。まわりにいた人たちは、その音と様子にビックリして眺めていました。気持はわかりますが「物にあたらなくても・・・」「まわりにいる人のことも考えたら」と思いました。しかし、転んでしまった自分が恥ずかしかったのでしょう。冷静に眺めているといろんな発見があるものです。
祭司長たちや律法学者たちは、「神様の家は祈りの家であるのに、あなたたちは強盗の巣にした」という言葉に激怒しています。また群衆がその教えに心を打たれていたことを恐れています。しかも「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」とあります。人を殺したいと思うくらい激怒した原因は、自分たちのやっていることをズバリ指摘されたからでしょう。恥ずかしさが激怒へ転換したのだと思います。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>