ヨハネ 20:29 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
本日の九州学院の聖書の授業では、「幽霊」を導入の話にしたいと思っています。幽霊を見たことはないけど、なぜ幽霊が怖いのかというものです。これは幽霊の存在を信じているのではなく、恐怖心から危険を回避するがために幽霊が怖いのだそうです。そう考えてみると、その存在を信じているのでないのです。初めから怖いと思って、その存在を作り上げているのです。だとすると信じるということではないのです。
イエス様は復活したのち、弟子たちに姿を見せられました。はじめての時、なぜかトマスは一緒にいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」といっても、彼はそれを信じることができなかったのです。イエス様は、そのトマスに十字架の傷をみせ、触ってみなさいと言われました。自分の手で触って確かめなさいと。ところが、トマスはイエス様の手に触れることなく「わたしの主、わたしの神」と信仰の告白をしました。そのときのイエス様の言葉は「見ないのに信じる人は幸いである」でした。
恐竜の化石が発見される事があります。最近では骨格を研究し、肉付けをして恐竜展なども行われています。何度か出かけてみましたが、生きているかのような展示と動きに驚きました。ところが、パンフレットには「すべて忠実に再現できたわけではありません」とありました。骨格の復元や肉付きはできたがた、皮膚の色は再現不可能だそうです。実は、恐竜の皮膚の色は、その子孫であるトカゲやワニなどの爬虫類を参考にして色づけしてあるのです。子孫からさかのぼって、その時の環境を考えた創造色だったのです。恐竜の姿を直接知ることはできませんが、その存在は確かに認められるのです。
私たちは神様の存在を確かめようとします。現実に起こる出来事の中で不安になるとき、神様の存在を探します。しかし確信が得られずに苦しむことが多いものです。そのときは、自分ばかりでなく、ちょっと目をあげてみることです。この世界は神様の出来事であふれています。確信とはそんな出来事にふれ、そこから神様の存在を確かめていくことではないかと思います。
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