マルコ 1:45 彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。
まるで外国語という日本語があります。いや最近では携帯メールも象形文字が多く、顔文字になるとさっぱり理解できません。加えて高校生の言葉はもっとわかりません。ことばを伝える手段にしては分かりにくいことをするのだと思います。しかし、面と向かってはっきり言えないことを別の方法で伝えようとしているのかもしれません。ところがカタカナ言葉になるとある程度知識が必要です。みんなわかっているのかと不思議になることがあります。
イエス様はガリラヤでの宣教中に、重い皮膚病を患っていた人を癒されました。そのご「だれにも話さないように」と禁止命令をだされました。ところが癒された人はそれに従いませんでした。この出来事を人々に告げ、言い広めはじめたのです。嬉しくてしかたなかったのでしょう。自分の身に起こった奇跡、福音の出来事を伝えたくて、広めたくてしかたなったのです。自分の身を示して証ししたのです。
ある本で、日本語なのに全く意味不明の言葉をみつけました。それはカタカナ語といわれるものです。「コンプライアンスのためのリスクマネジメントをコーチングするプログラムをディベロップメントしました」と。もはや日本語ではない。しかも言葉の意味をつなげてなんとなくわかるようですが、はっきりと理解できるかといえばそうではありません。結局何を言いたいのか、私たちはどうすればいいのかわかりません。もしかすると聖書の特殊用語を並べて同じようなことをしていないでしょうか。自分が救われた福音とそれに感動した出来事を伝えたい時にはこのような表現はしないでしょう。
重い皮膚病を治していただいた人は、イエス様から「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言われました。しかし、どうしても自分に起こったことを人々に伝えたかったのです。聖書は「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と書いてあります。人々に分かりやすく、自分の身をもって証ししたのです。神様の出来事を言い広めることを「福音」といいます。
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