ルカ 10:36 あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。
「となりびと」といえば、ルーテル教会救援センターの名前です。震災後に救援先遣隊で共に出かけた牧師が名づけられました。その名前を聞いたとき、ルーテル教会にぴったりの名前だと思いました。ルターが教えた「小さなキリストになる」ということがこの言葉にぎっしり込められているからです。しかし、救援活動のなかで「となりびと」は言葉が変わっていきました。それは「寄り添いびと」です。となりとは寄り添い。イエス様は「寄り添い人」ではないかと考えていました。
イエス様の有名なたとえ話に「善いサマリア人」の話があります。強盗に襲われ、瀕死の状態にあるユダヤ人を、祭司・レビ人(ユダヤ人)は助けなかった。しかし、ユダヤ人と敵対していたサマリア人は「その人を見て憐れに思い」最後まで世話をしたという話です。このたとえ話は、イエス様が「隣人を愛しなさい」と教えられたことに対する、律法学者からの「隣人とは誰ですか」という質問に答えられたものです。
キリスト教文書センターから毎月出版される「本のひろば」に依頼され、エッセイを執筆しました。表紙をめくるとすぐある「出会い・本・人」のところです。まさか自分がこの欄にエッセイを書くことになるとは思いませんでした。とても光栄に思います。今回は東日本大震災救援活動で感じたこと、出会ったみ言葉について書きました。その冒頭にも書きましたが、M・ルターが書いた「キリスト者の自由」の中の1節が、今回のルーテル教会救援の根底にあると考えています。それは「となりびとに対して、私も一人の小さなキリストになる」という言葉です。そのことを具体化することが「被災者に寄り添う」ということだと書きました。多くの方からメールや電話で感想をいただき、反響の大きさに驚いています。
イエス様は話の最後に「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法学者に質問されています。「誰が隣人か」ではなく「誰が隣人になったか」と言われたのです。傷つき倒れている方々の隣人になっていくこと。その具体的な奉仕が「寄り添い」であると今回の救援活動を通して教えられました。
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