臨床宗教師の講座のために、東北大学の講義に参加しました。今回は石巻渡波にある曹洞宗法山寺を会場に行われました。救援活動を共にした伊藤文雄牧師が、臨床宗教師の理念について講義をしてくださいました。私も少しお手伝いをさせていただきました。
この講座は話を聞くだけでなく、「行脚」という実習もあります。曹洞宗のお坊さんを先頭に、様々な宗派、宗教者が一列になって被災地を歩くものです。またあるくだけでなく、それぞれの宗教が持っている祈りを唱えながらひたすら被災地を歩く実習でした。キリスト者、しかもプロテスタントの牧師たちにとって、この行脚をどう受け止めていくのか。ルーテル教会はローマ・カトリック教会と近い位置にありますので、歩きながらひたすら祈ることの理解はあります。しかし、この行脚は死者の霊を弔うという点からすれば、信仰的にどうかと異論を唱える牧師もおられるでしょう。キリスト教には死者を弔う祈りはないからです。
この行脚をしていると、被災者の方々が道端にでてきて深くお辞儀をして迎えてくださいます。また涙を流して、私たちの手を取って「ありがとう、ありがとう」と唱える方もおられます。みなこの宗教者の行脚に畏敬の念をもっておられるのがひしひしと伝わってくるのです。これは死者の弔いではない、生きている方の深い悲しみ痛みに寄り添う行脚なのではないか。そう考えるようになりました。だとすると、いま被災地に身を置いてキリスト者の祈りは生きたものとなっているのかを問われました。
伊藤先生とはじめた「被災地・祈りと巡礼の旅」は、まさに被災地に身を置く祈りでありキリスト者の行脚です。痛み苦しみが深いところに収まってしまった被災者の方々にできる宗教者のこれからの救援活動は「祈りと行脚」だと思います。この視点をぬきにした救援活動はこの先続けられないのではとの問いをもって熊本に帰ってきました。