マルコ 8:2 群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
「おにぎり」と「おむすび」の違いは何かというテレビ番組がありました。結論としては器具や機械を使ったのが、おにぎりで、手で握ったのがおむすびと説明していました。果たして本当かどうかはわかりません。ただ、コンビニのおにぎりと親が結んでくれたおにぎりは確かに味が違うといいます。人が天国に召される前に何が食べたいかという質問をすると、親の手料理だと答える人が多いといいます。そのなかでも「おにぎり」ではなく「おむすび」を食べたいと言われるそうです。きっとそこには特別な味があるのでしょう。おむすびに込められた何かに人は出会っているのです。
イエス様は、4000人以上の群衆が何も食べる物がないという状況に出会われます。その時、弟子たちを呼びよせて「群衆がかわいそうだ」と言われました。このまま空腹のまま帰してしまうと、途中で疲れきってしまうと思われたのです。また遠くから来ている者もいることを心配されました。4000人に食べ物を与える奇跡は、このイエス様の心からはじまったことでした。多くの人たちがパンを食べ満腹しました。弟子たちは
マザー・テレサの言葉に「大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」というものがあります。私たちは仕事でも「多くをする」ことを考えます。そのために「忙しい」と言う言葉を連発していないでしょうか。「忙しい」という言葉は、心はないということを言っています。マザー・テレサは「どれだけ心をこめたか」といいます。本来大切なことは、一つ一つの働きに心をこめること。その上で適切に働きをなしていくことです。神様の与えられた働きは、心をこめなければできないことです。「これだけ忙しいのに、どうしてうまくいかないのか」と考えるときがあります。その答えは「心がこもってない」からなのです。
イエス様は、食べるものがない群衆をみて「かわいそうだ」と言われました。そこにイエス様の心があります。その心が、4000人に食べ物を与える奇跡につながりました。感謝の祈りと共に与えられたパンには、イエス様の「心」が込められています。群衆が満たされたのは、パンだけでなく、イエス様のみ心によって祝福に満たされたのです。
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