マタイ 8:17 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。
九州学院の聖書科の授業で東日本大震災救援活動で出会った人々話をしました。先週は牧師に問われた言葉を紹介しました。「神様がいるなら何でこんなことがおこるのか」「神様は罪のない子どもの命を取られたのか」「キリストが共にいると言うなら、津波のときどこいいたのか」などです。牧師でも答えられない問があること、しかしその中でもキリストは必ずみ言葉を語っているはずと語りました。どこで、どんな風にみ言葉を語っておられるのか。それを直接生徒に問うているのです。
マタイ福音書におけるイザヤ書からの引用です。「主の僕」が人々の身代わりの苦しみを受けることが示されてています。キリストの十字架の意味を知る上でとても重要な聖句です。マタイはこの聖句を病気の癒しの中で取り上げています。イザヤは「主の僕の死」についてもっと深くしめしています。キリストの十字架と死の意味を知ることが、キリストはどこにおられるかを問うことになります。
日本キリスト教団出版局がだしている説教黙想「アレテイア」は、今回震災特別号となっています。その中に、徳善義和先生(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学大学名誉教授)が出席された座談会の記事がありました。その中で、この震災の中にキリストはどこにおられるかというテーマでの話があります。徳善先生は1510年にドイツの修道院のためにグリューネヴァルトという人が描いたキリスト磔刑画について話されています。この絵はペストの流行を負った絵だそうですが、「この方はわたしたちの病を負った」が主題だそうです。徳善先生は「そうすると、この津波の中でも流されていった人々と共に、十字架につけられて流されていくキリストがいたのではないか。そういう意味で、神の憐れみが徹底されているのではないか」と語られています。
マタイ福音書は「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」を引用しています。ここにイエス・キリストの存在が確かに語られています。十字架につけられたままで流されていくキリストが、苦しみ悩む人と共におられる。寄り添っておられる。だからこそ私たちも同じように寄り添っていくのだという指針を与えられています。
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