« 2013年10 月 | メイン | 2013年12 月 »
今日はアメリカLAにある復活教会LCRで説教奉仕をしています。この復活教会で説教の奉仕をさせていただくのは6回目でしょうか。私たちの日本福音ルーテル教会は日本からの宣教師として現役牧師を派遣していました。私自身もその事にはあまり関心がありませんでした。 ところが、引退教師であった伊藤文雄牧師が派遣されたということで、急に興味を持ち始めたのです。先生ははじめファーストルーテル教会の宣教師として派遣されました。今のようなつながりができたのは、伊藤先生の教会に遊びにいったのがきっかけでした。はじめはアメリカで楽しくバカンスをと考えていました。しかし、恩師である伊藤先生はアメリカの教会の現状や、保育園、学校、アメリカで生活する日本人・アジア地域の人々への宣教など、多くのことを身を置くことで見せてくださいました。自分とはまったく関係がないと思っていたことが、つながりを持つことで大切な関係へと発展していきました。 広島教会にある保育所と、ファースト教会付属保育所の姉妹締結。先生たちの交流、信徒の交流。そして子どもたちの文通が始まりました。アメリカからも園長先生はじめ多くの先生たちが来日し、日本の幼児教育について学びそれをアメリカで取り入れて新しい保育園を造られました。伊藤先生がLCRを兼任されることになり、そのつながりはまた新しく発展していきました。その時から毎年創立記念礼拝に招かれるようになったのです。 今回、大江教会はLCRと姉妹教会になりました。日本のルーテル教会では初めてのことです。私たちに福音を伝えて下さった宣教師を派遣されたアメリカの教会に、今度は私たちができることで交わりを深め、宣教協力をすることができるのです。感謝。
マルコ 7:31 イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
仕事が溜まりすぎて余裕がなくなると、その仕事のみしか見えなくなります。なんとかそれをやってしまわないと先が進めないように考えてしまいます。そんな時、最近ではまず珈琲を飲むことにしました。ちょっとそこから離れて、その仕事を眺めることにしたのです。そうすると仕事の順番などがわかり、溜まっていた仕事がはかどることに気が付きました。 イエス様は、ガリラヤ湖の周辺で「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒されました。聖書に「エッフアタ」という言葉が残されています。イエス様が話されたアラム語です。「開けよ」という意味です。癒された人だけでなく、多くの人々対して福音が開かれたということです。イエス様が、そこに行かれるまでの道のりが今日の箇所です。少しの距離を移動するのに、大きなまわり道をしておられるのがわかります。 ある日のことでした。帰りの電車の中に子供連れのお母さん2名と子供3名が乗ってきました。遊園地にいった帰りだったのでしょうか。乗ってくるなり興奮気味で、うるさく騒ぎまわっていました。帰りの電車で騒がれるとちょっと苦痛になります。まわりも冷たい視線でした。しかも、子どもたちは連結器のところで騒いでいるのです。子どもたちは常識がないのか怒りを感じたとき、ふと考えを変えてみました。「今日一日がとても楽しかったのだろうな」と。お友達と遊園地で伸び伸びと遊んできたのだろう。とても素敵な一日だったのだろう。すると問題は子どもたちではなく、ただ「シーシー」と言うだけで自分たちのおしゃべりに夢中な親のほうだなと。もし親が子どもたちに目をむけて、今日の出来事などを楽しく話していたら少しは「うるさい」という気持ちにはならないだろうと思います。何が問題かを知るには、その現象だけでなく大きく見ていくことも大切だと思います。 イエス様は「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。大きなまわり道をしてこられたと考えることもできます。しかし、大きな視点をもって改めて宣教の中心であるガリラヤにやってこられたのです。つまりデカポリスの中心を知るために大きなまわり道をされたのでした。中心を知るうえで大きな視点を持つことを聖書は教えているようです。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
マタイ 8:17 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。
九州学院の聖書科の授業で東日本大震災救援活動で出会った人々話をしました。先週は牧師に問われた言葉を紹介しました。「神様がいるなら何でこんなことがおこるのか」「神様は罪のない子どもの命を取られたのか」「キリストが共にいると言うなら、津波のときどこいいたのか」などです。牧師でも答えられない問があること、しかしその中でもキリストは必ずみ言葉を語っているはずと語りました。どこで、どんな風にみ言葉を語っておられるのか。それを直接生徒に問うているのです。 マタイ福音書におけるイザヤ書からの引用です。「主の僕」が人々の身代わりの苦しみを受けることが示されてています。キリストの十字架の意味を知る上でとても重要な聖句です。マタイはこの聖句を病気の癒しの中で取り上げています。イザヤは「主の僕の死」についてもっと深くしめしています。キリストの十字架と死の意味を知ることが、キリストはどこにおられるかを問うことになります。 日本キリスト教団出版局がだしている説教黙想「アレテイア」は、今回震災特別号となっています。その中に、徳善義和先生(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学大学名誉教授)が出席された座談会の記事がありました。その中で、この震災の中にキリストはどこにおられるかというテーマでの話があります。徳善先生は1510年にドイツの修道院のためにグリューネヴァルトという人が描いたキリスト磔刑画について話されています。この絵はペストの流行を負った絵だそうですが、「この方はわたしたちの病を負った」が主題だそうです。徳善先生は「そうすると、この津波の中でも流されていった人々と共に、十字架につけられて流されていくキリストがいたのではないか。そういう意味で、神の憐れみが徹底されているのではないか」と語られています。 マタイ福音書は「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」を引用しています。ここにイエス・キリストの存在が確かに語られています。十字架につけられたままで流されていくキリストが、苦しみ悩む人と共におられる。寄り添っておられる。だからこそ私たちも同じように寄り添っていくのだという指針を与えられています。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
最近のコメント