ヨハネ 19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
大学の恩師が先月天に召されました。語学の天才といわれた先生でした。学生アドバイザーとしての働きもあり、きっとこれからも卒業生の記憶の中に残る先生だと思います。先生は当時小学生だった娘さんを白血病で天に送られました。その娘さんの葬儀が神学校のチャペルでありました。親として自分の娘を天に送らねばならない先生の苦悩を感じましや。同時に、信仰によって神様のもとでまた会えると言う確信とが重なり合った葬儀でした。これまでの葬儀の中で一番記憶に残っている葬儀です。
イエス様は、十字架上で完全に息を引き取られました。人々はイエス様の死を確認して、ピラトに埋葬を願いでました。そして、人々の手によって確実に墓に納められたのです。
私たちは、愛する者の死に直面したとき、それを受け入れることに多くの時間が必要です。その死を受け入れられないからです。なんとかもう一度、命を取り戻したいという思いがあります。幼い子どもを天の送られた先生は、遺族挨拶で次のように述べられました。「この棺を揺り動かして目を覚ますのなら、もういちど話がしたい」と。人はその死を受け止めなければなりません。先生はその次にこう言われました。「もう天国にいて病気もなおって、幸せでしょう。天国で待っていてくださいね」と。
イエス様の死を誰も認めたくはなかったでしょう。しかし、確かに十字架上で息を引き取られました。ところが、この死はこれで終らなかったのです。人々はイエス様の死を受け止め、墓に納めて終わりにしようとしました。ところがイエス様の命は、これで最後ではなかった。イエス様は死ななければその復活はありえない。そんな命のつながりがあったのです。よみがえりの命という続きが、人間の新しい希望となりました。
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