マタイ 8:22 わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。
ある教会の姉妹が「私は毎日、新聞の死亡広告欄をみるとため息がでるのよ」と言われました。その背後にある本当の思いが何かなと考えました。そこで「死亡広告欄」というのを改めてみました。その方の経歴、喪主の名前、葬儀場所などが書いてありました。キリスト教で葬儀をされる方は少ないのだなと、違うことへと目が向いてしまいました。死をみつめて生きていく。それは若くても年齢が多くても同じことです。イエス様は「あなたの十字架を背負って私に従ってきなさい」と言われました。十字架とは「死」ということですから、あなたの死を背負って私に従いなさいといわれたのです。そして「私が休ませてあげよう」と言われました。死という何とも言えない恐れといつも一緒にいるなかで、イエス様さまの所には本当の休息があるといわれるのです。
イエス様は、ガリラヤ湖の向こう岸に弟子たちを行かせようとされました。その時弟子の一人が「まず父を葬りにいかせてください」と願います。しかし、イエス様の答えは「わたしに従いなさい」でした。親の葬式すらもできないのか?という疑問もあります。しかし、葬儀とは何かということを考えてみると、イエス様がここにおられるいま、なすべきことは何であるかを考えねばなりません。
産経ウェブニュースで、大手スーパーが葬式サービスに一定の目安をだしたことの賛否両論がかいてありました。「流通大手のイオンが、自ら手がける葬儀紹介サービスの中で『布施(ふせ)の価格目安』を打ち出したところ、仏教界が『布施に定価はない』と反発している。戒名(かいみょう)料などを渡す際に、寺から『お気持ちで結構です』と言われて、悩んだ人は多いはず。そんな声を受けて打ち出された価格目安だったが、寺側は『企業による宗教行為への介入だ』と受け止めている」(産経新聞より)と。これを読むと、「葬儀とは何かな」と思います。キリスト教では葬儀は死者のために行われるものではなく、遺された遺族のために行います。ご本人はすでに神の国におられるからです。天に召された方の信仰を覚え、感謝し、受け継いでいくことが大切です。遺族にとってはその方がいかに神さまに愛されたかを確認する時です。
イエス様は「死んでいる者たちに」と言われました。生きている者とは、イエス様に従う人をいいます。その人たちがどのように生きて行くか、そして信仰を全うするかに重きを置かれています。私たちは天に召された方々の信仰を受け継ぐという遺産があります。その信仰に立った献金をすればいいのではないかと思っています。
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