マタイ 18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
車を運転してあるとき信号機が赤だったので止まりました。すると後ろからおおきなクラクションを鳴らしながら赤信号を渡っていく車がありました。じぶんが間違っているのかと思いましたが、いやそうではないルールを守っただけなのにと複雑な心境でした。また、前の車からゴミが捨てられたり、タバコの包み紙が投げられたり、コンビニの袋が投げられたり。この国のモラルはというより、個々人のモラルってなんだろうと考え込んでしまいました。
イエス様は、ペトロから「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と質問を受けます。イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」と答えられました。そのあと「仲間を赦さない家来のたとえ」を話されました。ある王様が、到底返済できない莫大な借金をもつ家来を赦すが、家来は自分に借りのある仲間にあうと、王への借金の五十万分の1にもかかわらず、彼を赦さず、捉えて牢屋にいれたというものです。王様は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」といって家来を牢屋に入れるという話です。
小説の中にでてくる言葉です。ある人が「あなたの人生の行動規範はどういうものですか」と聞かれます。その人は「自分がやりたいことをやるのでなくて、やるべきことをやること」と答えます。自分が自分に与えたルールが、その人の行動規範となります。これはすべての人が守るルールとは違います。それはモラルです。行動規範とは、自分のやるべきことは何かを知ってそれをやることです。簡単なようで難しいものです。しかし、神様が私たちに求めておられるのは、あなたに与えられた信仰・命においてやるべきことをやることです。
イエス様は、赦された家来のやるべきことは、自分に借金のあるものも同じように赦してやることだと言われました。やるべきことを考えるとき、自分に与えられた人生とはいったいどんなものかを考える必要があります。生かされている今日、神様に支えられて何を「やるべき」か、を考えながらすごしましょう。
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