九州学院での聖書科の授業も無事に1年が終わりました。高校生に話をするのは講演はあっても授業は初めてのことでした。一発勝負の講演とは違って、連続した授業はとても学びの多いものでした。毎週木曜日が来るのが恐怖になったり、どうすれば生徒たちが興味を持って聞いてくれるかを考えていました。この1年でかなり成長させていただきました。
牧師として聖書の話を語るのを大変だと思ったことはありません。むしろ喜びを持って語ってきました。御言葉を語ることの楽しさも実感しています。しかし授業は違いました。一体どこが違うのか。それは普段み言葉を語る場合、そこにおられる方は「聞く」という姿勢がはじめからあります。というよりみ言葉を聞くために集まっておられるので、牧師としてはみ言葉を正しく語ることを考えればそれでよかったのです。しかし授業はそうではありません。喉が渇いてない牛を川に連れて行っても水は飲みません。その生徒の中に「問い」がなければ宗教の授業は退屈な時間となるのです。ですからどうやったら「問い」が生れ、聞く姿勢になってくれるかでした。これは自分が神学校の卒業論文であつかったテーマだったのです。
最後の授業を終えて教室を出た時、一人の男子生徒が駆け寄ってきました。「先生に感謝の言葉をいいたい」と。授業の中で「時」をテーマしたとき、時間は未来から過去に流れていくという考えを話しました。この話しで2年間悩み苦しんできたことに答えが与えられたというのです。神様って主のある労苦を無駄にはされないのです。
この1年の経験から、み言葉を語る姿勢をもう一度見直すことができました。テーマであった「問い」と「答え」の意味と構造が少しわかりかけてもきました。この貴重な経験をくださった神様に感謝しています。