マタイ 8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
昨年は梅雨明けから猛暑が続きました。牧師館の部屋も夜になっても気温がさがらず、ある夜は気温35度ありました。寝ていても熱中症になるとニュースで聞いています。毎日体温を測っていましたが。しかし体温計が作動しないのです。説明書には「L」と出てきたら測定開始となっていますが、それが出ません。すでに35度をさしています。ということは、気温と体温とがほぼ同じということです。朝からちょっとした驚きでした。まさか体温と気温が同じになるなんてとても驚きました。
イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っていたとき嵐になりました。弟子たちが波にのまれそうになったとき、イエス様は寝ておられたと聖書は記しています。すぐにイエス様をおこし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と懇願します。イエス様は、風と湖をお叱りになり嵐が静めました。そのとき様子をみて人々は「驚いた」のです。しかし、イエス様が問題とされたのは「信仰」でした。
根県益田市にMさんという信徒さんがおられました。趣味は折り鶴でした。鶴を折られると必ず、そこにいる人に差し上げておられました。ある時朝日新聞のお便りコ-ナ-に、「病院の待ちあい室で小さい鶴をいただいて驚きとともに、人は病気で残された半身でも人に愛を与えることができる」というようなことが紹介されていました。Mさん半身不随となった片手で鶴を折るのが趣味でした。大きさは3ミリでした。どこへいっても、そこにいる人に微笑みとともに小さな鶴をプレゼントされました。小さな鶴をいただいた方に勇気を与えておられました。信仰の証がそこにはありました。みなその鶴に驚いたのです。
聖書の世界でも「驚き」を大切にしています。イエス様の出来事をみて、群衆は「驚く」のです。そして、「この方はどういう方なのか」という問いが生まれるのです。信仰の中で大切なことは問いがうまれることです。神様と自分との関係において問いをもつこと。その問いを自分で受け止めるときに、御言葉という答えが答えとしてあたえられるのです。この世界に起こることに「驚き」、そこから「問い」をもつということを考えてみましょう。
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