マタイ 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
ゲーテの言葉に次のようなものがあります。「現在の姿を見て接すれば、人は現在のままだろう。人のあるべき姿を見て接すれば、あるべき姿に成長していくだろう」。毎年1月には年に1度の教師試験が行われます。試験委員の方々にとっては責任の重い任務です。教師試験とは牧師となる最終試験です。どこで合否を判断するかは試験委員に任されています。しかし、最終的に牧師として立つのは、信徒さんとの交わりの中です。牧師は信徒の皆さんに育てられていきます。ゲーテの言葉のように、牧師のあるべき姿をみて試験が行われるようにと祈るばかりです。
福音書の中間あたりにイエス様の「山上の変容」記事があります。イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネをつれて高い山に登られました。その山で、イエス様の姿が変わったとあります。イエス様にとってガリラヤでの宣教活動をおえ、エルサレム(受難)へ向かうちょうど中間点にきておられました。その時大切だったのがこの変容の出来事です。イエス様が神の姿「あるべき姿」になられたのです。
どこのトイレも奇麗になりました。ある時デパ-トのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。私たちは神様から素手のままで保たれています。本来人間のあるべき姿とは、すでに保たれているものかもしれません。
イエス様は高い山で変容されました。その姿は「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と福音書は記しています。しかし、何か別物に変容したのではなく、イエス様が神の子として「あるべき姿」に戻られたのです。弟子たちはイエス様のあるべき姿を見たのです。このあるべき姿を見たことによって、その後にある十字架と復活の意味をしることになりました。自分のあるべき姿が見えているか。そんな問いかけを受けています。
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