ヨハネ 19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。
ある会議で次のように言われました。「教会でよく聞く言葉に『みんなでやりましょう』というのがあります。これは曲者なんです。『みんなでやりましょう』というときは『誰も責任をとりません』ということと同じなのです」と。教会に必要なのは、「みんなの信仰」ではなく「あなたの信仰」です。私は一人でも宣教するという気力ですが、つい「みんな」がでてきます。「みんなが、みんなが」という時、その課題は先には進まないし、みんなにあわせたことによる間違いもあると思います。信仰の世界はみんなではなく、神様はということです。
イエス様は総督ピラトから死刑の判決を受けます。しかし、ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と告げています。イエス様をなんとか釈放しようとするのですが、群衆の声に負けてしまうのです。その群衆の声は「十字架につけろ」という一つの意見しかありませんでした。違う意見をもっていることを認めない群衆の声が、イエス様を十字架の死へとおいやったのです。
ビジネス本の中に考えさせられる文を見つけました。「二人の人が同じ意見を持っているとすれば、そのうちの一人は余分である。同じものしか見えない人といくら話をしたところで、何も得るものはない。自分と同意する人といくら話しても、意味がない」というものです。人が独裁者になったり、裸の王様になったりするのは、違う意見があっても聞かないからです。また意見が言えないのは、聞く側に大きな原因があります。聞く側の人にとって同じ意見ばかりのときは、立ち止まって自分自身を省みる必要があります。
イエス様を死刑にするために群衆はみな「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいます。同じ意見の者ばかりがそこにいました。ただ総督ピラトだけは違う意見をもっていました。ところが、同じ意見の者たちに押し切られてしまうのです。意見の違いを理解しないところの結果が、死刑につながっていったのです。ただし、十字架の意味は別の所にありましたが。今日は、意見を聞くことの本当の意味を考えたいと思います。
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