ヨハネ 6:63 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
日本の格言に「優しい一言には、冬の三カ月を温める力がある」というものがあります。東日本大震災救援活動も各ボランティアが活動終了を迎えています。今年の石巻北上地方は91年ぶりの大雪だったとお聞きしました。仮設住宅では隙間風が入ってくる被害があり、玄関も吹き抜け、寒さにじっと耐えるしかないとお聞きしました。吹雪の中でも、ボランティアが仮設にきてくれるということに被災者の方から「ここに一緒にいてくれるだけであったまるね」と言葉をいただいています。その言葉がボランティアの心を暖かくしています。ボランティアがいなくなって、これからどうなっていくのでしょうか。
イエス様の有名な言葉に「わたしは命のパンである」というものがあります。それを食べるという話に対してユダヤ人たちは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言っています。イエス様の人肉を食べる話に聞こえたのかもしれません。イエス様は続けてその言葉について教えられました。それは「イエス様が話した言葉は霊であり命である」というものです。それを信じて聞くことができるかという問いかけでもありました。言葉に躓くのでなく、その言葉の力を受け入れることを望まれたのです。
作家の井上靖氏が、ある本の中で次のように書いていました。「先日亡くなった指揮者のカラヤンは僕と同じ年です。十年ほど前、小澤征爾君の誘いで、彼の演奏会に行きました。小澤君の師匠ですからね、カラヤンは。その時、彼は指揮台から下りる際に足をふらつかせた。危ないな、彼は疲れているな、と僕は思ったから、休憩時間に紹介しましょうと言われても断わった。同じ年でないと、他人のふらつきなんてわかりません」ど。人は自分のペ-スで進んでいきます。しかも、誰もが自分と同じペ-スで進んで行けると思っています。ところが進めなくなって初めて隣を見るのではないでしょうか。「同じ年でないと、他人の足のふらつきなんてわかりません」という言葉には、いたわりが感じられますし、暖かいことばです。
イエス様は「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。言葉とは単なる会話の道具ではなく、音の響きでもありません。イエス様の言葉には神様の霊と命があります。同じようにイエス様を信じる私たちの言葉にも、霊と命があります。それを知って正しく生きるとき、言葉が命となって人に届くのだと思います。
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