黙示録 3:7 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。
教会の扉を開けておくと、いろいろなことに出会います。また、ある時は迷い込んでくるものもあります。先週の日曜日にはスズメが舞い込んでいたそうです。一度教会の玄関に入ってしまうと、出ることが難しいのでしょう。礼拝堂に入ったらなお大変だと思います。しかし、スズメはガラスにぶつかってしまったのか、気絶したようにぐったりしていたそうです。そのご「大丈夫だよと」声を変えたら飛び立っていきました。まるで聖フランチェスコになった気分でした。教会の扉を開けておくというのは、このように神様との出会いを体験することでもあります。
ヨハネの黙示録には7つの教会にあてた手紙が書かれてあります。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラディルフィア、そしてラオディキアの教会宛です。その中でもフィラディルフィアの教会は高い評価をうけています。最終的に救いに至る道が既に開かれており、恵みの根拠としてキリストの言葉に心を開き、信仰に堅く立っているからです。
ビジネス本にあった言葉です。「誰も説得によって人を変えることはできない。すべての人は堅くガードされた心の変化の扉を持っており、その扉は自分で中からしか開けられない。説得や感情に訴えることによっても、その扉を他人が外から開くことはできない」。人の持っている心の変化の扉とはいったい何だろうと思います。それは自分中心の見方でしかないと言えます。自分を開くのは自分しかないという言葉が当たり前のようで、一番できないことだと私たちは知っているのではないでしょうか。
ダビデの鍵を持つ方とは、イエス・キリストのことです。イエス様のみ言葉を受け入れるときに自分の扉を自分で開けることができるようになります。自分中心からキリスト中心へと変わることが大切なことです。しかも信仰によって開かれた扉は、誰も閉じる事が出来ません。また不信仰によって閉じた扉は人では開くことができなくなります。神様が閉じられるからです。
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