マタイ 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
ある時、「この教会の基礎は腐っていますね」とある人に言われました。牧師である私は、「そんなことはありません」と反発しました。しかし、それは本当なのです。となりのビル工事の建築家の眼でみれば事実なのです。私は聖書を読んでいたので、建物の基礎と教会の基礎をだぶらせて聞いてしまったわけです。そのことでいろいろと話ができました。建物にとって基礎とは何か。基礎のない建物はありえないこと。一番に気をつけるところが基礎であること。建築家の話を聞きながら、私たちの教会は幸せだなとしみじみ感じました。それは、イエス・キリストという土台(かなめ石)の上に建っているからです。
イエス様は「家と土台」のたとえ話をされました。とてもわかりやすいたとえです。自分の家を岩の上に建てた賢い人と、砂の上に建てた愚かな人との比較です。その違いは「土台」にあります。雨が降って洪水が押し寄せても、岩の上に建てた家は倒れなかった。ところが砂の上に建てた家は倒れたという話です。この土台とは神様のみ言葉のことです。
阪神淡路大震災のとき、ルーテル教会も神戸地区で炊き出し、西宮で学童保育の救援活動をしていました。私も西宮教会に派遣され、2ヶ月をそこで過ごしました。多くのボランティアと出会いました。また被災した子供たちと礼拝堂で思いっきり遊んだことが思い出です。あの時、余震が続く中で一番安全なところは教会の礼拝堂でした。教会の横に川が流れていたので、土台になる杭を基準よりさらに10m深く打ってあり岩の上に立っていたからです。東日本大震災ではこれから人生の土台を再度据えなければいけません。心のケアもそのためのものです。
イエス様は「岩を土台としていたからである」と言われました。この岩とは神様のみ言葉のことです。神様の言葉は揺らぐことはありません。その上に立っているときに、生きて行く勇気・希望があたえられます。私たちの人生でどこに土台を据えるか。今日もイエス様から問われています。
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