ローマ 9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
病院で看護補助のアルバイトをしていたときがあります。毎日多くの方が入院してこられます。その中にはこの病院で一生を過ごすであろう方もおられました。その方が若ければ若いほど胸をしめつけられる感じがしたのを覚えています。あるときカルテをみてびっくりしました。私と同じ年令で、二人の幼い子供たちがおられました。その方も一生を病院で暮すであろう方だったのです。そのとき私は、この人の痛みや苦しみを共にできるだろうか、いや私は共にできないと思いました。私には受け取ることのできない痛みや苦しみがこの世にあることを知ったのです。
パウロは信仰による義を明らかにしています。それによって神様の民としての栄光が約束されることが明らかになったと教えています。しかし、パウロの中にはイスラエルの同朋たちのことで、深い悲しみ、絶え間ない痛みがあるというのです。それは個人的なもののように聞こえますが、そうではありません。神様との関係における事柄についてのことです。
宮城県にあった大きな避難所には、最高で700名の被災者がおられました。避難所になった施設の館長さんは不眠不休で人々のお世話をされていました。最後の1家族が仮設に移ったのは10月でしたので、その間ずっと支援活動をされてきたのです。正月になり派遣牧師が挨拶にいかれました。「おめでとう」の言葉に、館長さんは「何もおめでたくはない正月だ」といって、自分の23歳の一人息子が津波に流されてまだみつかってないことを話されたそうです。じつは誰もがはじめて聞くことでした。館長さんは自分の使命は最後の1家族が無事に仮設に移るまで見とどけることと言われていました。自分の苦しみ、悲しみはそっと置いておかれたのです。そのような方々といまも支援活動を共にしているのが私たちルーテルさんです。
パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」といいます。その中で神様の使命に生きることによって、神様の義を明らかにしているのです。深い悲しみ、痛みの中にあっても神様が約束してくださった義によって使命をはたしていくしかないのです。
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