ヘブル 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
ある牧師のお母様の告別式のことでした。遺族挨拶の中で、牧師が入院中のエピソードを話されました。その話とは病室でのことです。意識不明になられても絶えず讃美歌のテープを流されていたそうです。たまに意識が戻られたそうですが、看護士さんが意識を確かめようと「○○さん。いまどこにいるかわかりますか」と聞かれたそうです。するとお母様は「教会にいます。みんなで礼拝をしています」と幸せそうに答えられたそうです。私はこの挨拶を聞きながら、この世に遺された「証し」だと思いました。礼拝とはなんだろうかという答えを、このエピソードからはっきりいただけたのです。どこにいるかがわかること。これは幸せなことです。
ヘブル書は「信仰」とは何かを語っています。ここで、「望んでいる事柄」というのは、私たちが望んでいることではなく、私たちが望む前に神様から与えられている希望のことです。信仰とは、神様がすでに用意して下さっている希望を確信し、それを確認することです。
インドの笑い話に次のようなものがあります。旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」「そうだな、三・四十分というところだな」「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもらえませんか」「いいとも。乗りなされ」それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」「そうだな、一時間くらいかな」旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」。自分がどこにいるか、どこに進んでいるかを確認していないと大変なことになってしまいます。神様がすでに与えて下さっている希望から遠ざかることになります。
ヘブル書は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言います。いま自分たちはどこにいるか。すすむべき方向はどこか。進むべき方向の確認をきちんとしていきたいと思います。
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