ヨハネ 9:41 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
ル-テル学院大学の英語科教諭にJ,オズボ-ン先生がおられました。先生はアフリカ系アメリカの方でした。オズボ-ン先生のある所でのコンサ-トでのことでした。一人の方がアンコ-ルに「オ-ルド・ブラック・ジョ-」を歌ってほしいと頼みました。しかし、先生は「その歌は黒人差別の言葉が入っているので」という理由で歌われませんでした。頼んだ方はコンサ-ト後、「大変失礼なことをしてすみません」と謝罪されました。先生はその方に逆に感謝されたのです。「あなたがコンサ-トの時、聞いてくださったので、その歌がどんな歌なのかを多くの人に解ってもらえました。ありがとう」と。聞かなければ解らないことはたくさんあります。そして聞いた後に私たちはどうするかです。
イエス様によって、生まれつき目の不自由な人が癒されます。「見えなかったものが、見えるようになる」という奇跡を通して、神様の国が来ている事(イザヤ書の預言)が示されます。また、そこにおられるイエス様が神様の子であることも同時に示されます。しかし、ファリサイ派の人たちはそれを信じることができず、何度も本人に事情聴取をするのです。はじめから信じないのですから、奇跡と事実を受け入れないのです。
相談をすると帰ってくる答えで一番多いのは、「わたしの経験からすると、こんな風に乗り越えた。だからあなたもこうすればいいよ」というものです。この答えは相談者にとって有効ではありません。人の話を自分の経験で解釈・判断した答えだからです。その人の自分中心の答えでは相談者は満足できません。相談している方は「まず聞いてもらいたい」のです。まず答えがほしいのではありません。この相手の立場にたって「まず聞く」ことが求められています。自分の判断を押しつけてはいけないのです。
イエス様は「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われました。自分たちの判断、基準では「見えている」と主張しても、実際は見えないことがあるのです。自分のことしか考えられない人たちも同じです。口語訳には「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある」となっています。自分の判断、基準だけが正しいのではなく、相手にも同じものがあることをまず考えていたいと願います。
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