2コリント 1:23 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
久しぶりに東京で吉祥寺から三鷹・西野までバスに乗りました。 ある停留所にバスが止まり、そこには数人のお年寄りが待っておられました。初めの方は半身に障害がありゆっくり乗ってこられました。次のお年寄りは元気そうでしたが、それでもゆっくり転ばないように乗ってこられました。出来事はこれからです。三番目のお年寄りが乗ってこられると、運転手さんが怒鳴ったのです。たぶん後ろに車がつかえていたのでしょう。「はやくして。料金は初めからわかっているんだから、用意しておいたらどうだ」と。するとそのお年寄りは言い返して「年寄りだからしかたないだろう」と言われたのです。私にはどちらも正論だと思いました。しかし、どちらもおかしいかなとも感じました。どちらにもいえることは「思いやりの欠如」ではないでしょうか。
パウロは、コリントの信徒へ少なくとも5通の手紙を書いています。現在の新約聖書では、それらをまとめて2つとなっています。パウロは第1の手紙を書いたあと、コリントに長期滞在する旅行の計画をたてていました。しかし、何か重大な不祥事がコリントで起こったようで、旅行先を変更しエフェソに戻っています。エフェソから、弟子のテトスに手紙を託してコリントに向かわせました。この手紙が「涙の手紙」と言われています。コリントの人々を思いやって書いた手紙です。
毎日たくさんのメールが来るようになって、みんなが困るのは返信です。メールを送った方はすぐにでも返信が来ると思っています。ですから返信が少しでも遅くなると怒られてしまいます。メールついては次のような記事をネットでみつけました。「女子にありがちなのが、うれしいことがあったりテンションが上がった時に一方的に送ってしまうメール。こうしたメールには返信を期待しないのが一番ですが、ひと言『返信不要だよ』と加えておくと、逆に返信が来るということが多々あります。私がよくやるのは、『忙しいと思うから返信不要だよ◎ お仕事がんばってね』という感じ。相手にプレッシャーを与えない方が、返信が来やすいということも、頭に入れておきましょう」。つまり、メールというものは相手にプレッシャーを与えていることをまず送信側が理解しておくことが重要なことです。その理解がないときにトラブルが発生します。
パウロは「あなたがたへの思いやりからです」と言っています。相手の立場を理解することで思いやりが出来ます。思いやりがあるから、いまは行かないという選択もできます。自分の事ばかりでなく、相手を思いやる心から始める。これも神様の御心です。
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