ヨハネ 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
「あなたは落ち着きのない子ね」とよく言われました。落ち着きがないのではなく、いろいろなものに興味があるから絶えず動いていたのだと思います。幼稚園でも「落ち着きのない子」と言われている子どもほど、本当に面白い個性を持っています。絶えず何かに関心を持ち、それをひたすら追いかけているのです。落ち着きがないのではなく、興味がありすぎると言う個性を持っているとみてあげたらいいと思います。
エルサレムにある「ベテスダの池」での出来事です。イエス様は、長い間病気で苦しんでいた人を癒されます。池の水が動いたとき、一番はじめに池に入ったひとが癒されるという伝説があったようです。しかし彼はそこに行くことができず、誰も彼を池に連れていってくれなかったのです。池は間欠泉であったといわれていますが。イエス様は「水が動く」ことではなく、「心の動き」を重視されました。「よくなりたいのか」というみ言葉への「はい」という信仰。まずイエス様から心を動かされる。そしてそのイエス様にむかって心を動かすことを大切にされたのです。これが信仰なのでしょう。神様に対してたえず心を動かしておくことを教えられるのです。
ディズニーランドのアトラクションに乗るのに、人気のものは2時間から3時間並びます。しかし、そこはディズニーランドでしか味わえない不思議な体験もできます。なぜか「待ったようには思えない」という体験です。時間としては確かに2,3時間待っているのです。理由のひとつは、列の並び方かもしれません。まっすぐ直線に並ぶのでなく、くねくねとゴールに着きそうで着かない並び方です。もう一つは、くねくねとしているので、不思議と少しずつ、絶えず「動いている」ことです。じっと待っているのではなく、動きながら待っていることで、ゴールに絶えず近づいているように思えるのです。この「動いている」ことは、ゴールが近いという希望です。それが不思議な感覚としてあるのです。
イエス様に病を持った人が「主よ、水が動くとき」と言いました。動くことに希望があり、この動くときに救いがあることを指し示す言葉です。しかし、私たちにとって動くのは「水」ではなく、神様の「御心」です。イエス様の御心は私たちに対して常に動いています。止まってはいません。私たちの職場でもたえず共に働く者へ心を動かし、認め合って仕事をしたいと考えています。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>