ヘブル 5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
ある方と話しをしていて、「クリスチャンの弱さがなんだか悲しいですね」と言われました。「弱さ」といっても悪い意味ではありません。権力や力に対するときに、愛を語ると「弱い」と思われるかもしれません。しかしその場合の神にある「弱さ」は本当に人間的な「弱さ」でしょうか。十字架の上のイエス様は確かに「弱い」存在です。権力の前にはなすすべもありません。ありませんが、イエス様の十字架を見上げるとき「弱さ」だけでないものがみえてきます。
ヘブル書では、イエス様を大祭司として扱っています。大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているとのべています。大祭司も生身の人間ですので、罪のゆえの弱さを身にまとっています。イエス様もこの弱さを身にまとわれましたが、それは罪のよるものではなく十字架という弱さでした。その点で大祭司といえども一般の大祭司とはちがいます。しかし、この弱さゆえに人を「思いやる」ことができるのです。
離婚の原因で一番多いのは「性格の不一致」と言われています。最近では多種多様のようですが。しかし、個人の性格はじめから一致していないものです。性格の不一致は何かと問われたら、はっきりとした答えはみつかりません。とにかく「気にくわない」というのが本音のようです。離婚調停員の方の話では「あまりにも多くの夫婦が、相手の中に自分のイメージを見つけすぎ」だと指摘しています。夫婦であってもそれぞれの価値観、個性、経験、気質はまったく違うことをまず認識すべきと言われていました。「性格の不一致」の対義語は「思いやり」です。相手を思いやることが人間関係において一番大切なことです。
ヘブル書の著者は、イエス様を大祭司としてみて「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」と教えています。自分自身の弱さを身にまとっていることを知ること。この弱さを知ることのゆえに、人を思いやることができるのです。十字架の死があるからこそ、私たちの痛み苦しみをわかっていてくださるのです。
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