マルコ 8:23 何か見えるか
ある婦人の庭に秋桜が咲いたそうです。一年がたちました。次の年は風下の隣家の前に咲きました。そして一年がたちました。その年はもっと風下の大きな木の根本に咲きました。そしてまた一年たちました。今年はどこで咲いているでしょう。というお話です。秋桜の種は風下へと、その命をつないでいきます。今年みた秋桜が、来年は違うところでその花を咲かせる。しかし、命はつながっているのです。私はこのことに励まされました。私たちが撒いている福音の種は、必ず風(聖霊)にのって運ばれ、その土地で花を咲かせるのです。
イエス様は一人の目の不自由な人に手を置いて「何が見えるか」といわれました。すると彼は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。この彼の答えの中に、私たちは何をみるのでしょうか。「人は木ではない。歩いている」というメッセ-ジのなかに暖かいものを感じます。イエス様の癒しによって、その人は人をみることになりました。それは自分の確認でもありました。
今週の礼拝はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝でした。ある教会では今年もバラが降る礼拝をされたようです。また赤い風車を飾ったり、礼拝に出ている方で外国語を話す方が突然外国語でしゃべりだしたり。また、伝統的に紅白饅頭を配るところもあります。聖霊をどのように感じることができるか。目に見える感覚でどのようにとらえることができるかを考えています。私たちの教会では赤い布で聖壇を統一しました。また、2年前は赤い紐の結び目をみなさんにお配りしました。聖霊がイエス様と私を結んでくださっていることを知るため。私たちもすべてが結びあわされてひとつの教会になっていることの体感が目的でした。赤い紐によって見えてきたものは、私たちは神様としっかり結びあわされているということでした。
イエス様が目の不自由な人にもう一度触れられると、さらにはっきり見えるようになりました。私たちはいつもおぼろげながら物事を見ています。それは聖霊をあたかも木のように見ているかもしれません。イエス様の与えてくださる信仰という力によって、きちんと見ることができるようになります。聖霊の働きをきちんと見る週をすごしたいものです。
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