1テモテ 1:16 わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
清水寺の大西和尚の本を読んでいましたら、その説法の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟をきめることである」と話しておられました。それを読みつつ、私などとてもだめ、ましてや誰にでもできるわけはないと思いました。反面、それができるのはクリスチャンにかぎるとも思います。主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)といわれました。これは、自分の十字架(死の道具)を負えということですし、自分の死を負って従えということではないでしょうか。もちろん死んでもよいとの覚悟でこいということです。
パウロは、若い弟子テモテに自分がうけた憐れみについて教えています。このパウロは、イエス様とその弟子たちを迫害していた者でした。パウロは「イエス様の限りない忍耐」を知ったといいます。ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、み言葉を受け、自分の生き方を根本から見直しました。そして自分がキリスト者の「手本となる」ことを決断したのです。その中心には福音(神様のみ言葉)がありました。
電車の広告などで「~のバイブル」という表現をみます。「ダイエットのバイブル」「綺麗になるバイブル」「安心して生きるバイブル」などです。この「~バイブル」と言う表現をみるたびに、人々はこれをどのように受け取っているのか。理解しているのかと思います。ネット辞書では、バイブルとはまず「聖書」とかいてあります。そのあと「転じて、ある特定の分野において権威ある書物のこと」「常に傍らに置く事から転じて、座右の書や愛読書のこと」皮肉として「ある特定の分野において優れすぎて誰も実行できない最良の実践を記述した書物のこと」とありました。その他「各種マニュアル本やコンピュータゲームの攻略本の書題にバイブルが冠されることがある」そうです。聖書「バイブル」は、神様の言葉です。その基本からもう一度、言葉の意味を考えてみたいと思います。
パウロは「人々の手本となる」と宣言しています。この宣言ができるのは、パウロの中に福音があるからです。その福音こそが神様の言葉です。私たちもいま与えられている働きを終えるとき、神様のみ言葉に支えられてきた恵みに感謝することができるように。新しく始まる体制には手本となるような仕事をしていきたいと願います。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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